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    ドイツのゲゼレ修行時代 

    一年間のドイツで研修生活の後、CDG(カールデュイスベルグ協会 ) のドイツ職人研修プログラムに参加しました。 当時、個人ルートで研修ビザをもらうことがかなり難しくなっていたためです。ゲストハウスでの研修中に、何とかパン職人としての修行先を見付けたいとも 思ったのですが結果的に無理に終わりました。CDGの面接試験を受けるために、当初の予定より2週間早く研修を中断して帰国することになりました。提出し た動機書の中で、私は手作りの健康なパン作り(Biovollkorn)が習いたいと書きました

    応募者が多かったため、動機書を含む書類選考と面接で参加者が選ばれました。当初は、ドイツ語力の試験も検討されていたらしいのです が、出来ない人 のほうが多かったため出来る人だけドイツ語で面接が行われただけでした。参加費の支払い(当時約25万円)とCDG系列のCDCという語学学校への参加が 条件になりました。語学学校参加は基本的に6ヶ月間ですが、それぞれの語学力に応じて延長または短縮されました。私は2ヶ月間ケルンで普通の語学コース、 そして1ヶ月間ベルリンで専門用語コースに参加しました。私の語学力は今回も、語学学校では費用の割に余り伸びませんでした。(詳しくは「語 学学?!共握眨?/p>

    このプログラムでは、CDGとドイツの手工業会議所との話し合いによって開催先が決まります。私の参加した2000年はポツダムでパ ン?菓子?家具 職人の研修プログラムの開催でした。参加希望者が多かったため、ヒルデスハイムでの開催が追加されました。最終的に、ポツダム組6人(家具職人男性1名、 菓子職人女性2名、パン職人男性2名女性1名)ヒルデスハイム組5人(菓子職人女性3名、パン職人男性1名女性1名)の、合計11人の参加者でした。何度 かの事前研修セミナー(日本とドイツで)を経て、1年半の職人研修が始まりました。2000年8月のことでした。

    私が研修することになったヒルデスハイム Hildesheim は、ニーダーザクセンの州都であるハノーファーの南約30kmのところにある人口10万6千人 の町です。美 しく再建されたマルクト広場(Marktplatz) と、UNESCO世界遺産でもあるミヒャエル教会と塔 (Michaelskirche und Dom)が有名です。他の参加者はみんな市内の修行先でしたが、私の修行先はヒルデスハイムの郊外にある中規模のパン屋に決められました。5人の中では私 が一番ドイツ語が出来たため、そのように決められたのではないかと思います。実際、村にはパン屋しかありませんでしたから、何をするにも誰かに助けを求め る必要がありました。

    Broetchenstrasse毎日毎日、ひたすら大型機械の横に立っての"作業"、そして機械等の清掃作業をする日々が続 きました。パン屋での作業は、 完全な分業制で行われていました。生地を機械でこねる担当、焼く担当という具合です。私は、主にBrötchenstraßeと呼ばれるブロッチェン 成形の大型機械の操作担当でした。"手作り"どころか、パン生地に一度も触わらない日も多かったのです。教育係 のマイスターは、 時々私ともう一人の見習の "勉強のために"手作業"をやらせてくれました。(それが弟子を持った、マイスターの義務 でもあるのです。)しかし 誰かの作った生地で"パン10個成形"しても、誰かが焼いて出来あがりを見ることもなかったのでは、ほとんど何 の勉強にもなりま せんでした。

    当時の私の仕事内容は、例えば3時間ブロッチェンの機械操作(1万5千個)、3時間ベルリーナーという揚げ菓子を揚げる(1500 個)、2時間掃除 清掃。いつのまにか "学ぼう"という意欲すらなくなって、不味かろうがどうでもいいから"早く終わらせよう "という気にさ えなりました。大量に生産されますから、当然売れ残るのもかなりの量になります。一部は、乾燥させてパン粉にするなど再利用されていましたが、ほとんどは 生ごみとして処分されました。売れ残りをごみのコンテナに捨てるのは、見習の仕事でした。量が多くて足で踏んで詰めこまなければならない時など、悲しく 辛くて情けない思いがしました。私は大切に食べてもらえるような"手作りの健康なパン"を作りたいと切に思いま した。

    普通3年かかる修行(ドイツ人の場合も、アビテュアという試験を受けている人は2年に短縮される。)を私達は、言葉のハンディの上に半 分の期間でや ろうというのですから、私は焦りました。1年半で私が持って帰りたかったのは、ゲゼレという紙切れだけでなく"本物の職人の技 " だったからです。CDGの担当者も、手工業会議所の担当者もパン?菓子職人ではありませんから業界に詳しくないのも仕方ないことなのかもしれません。しか し、"手作り "を希望した私を"工場パン屋"に送りこんだだけでなく、修行先の変更を申し出た私を "辛抱のないわが まま"扱いして助けてもくれなかったことは許し難く思います。私と同じ理由でもう一人が、修行先の変更を希望したのですが担当者の援 助もな く、一人で実行するにはドイツ語力が足りず結局そのまま1年半が過ぎてしまったのです。

    修行中は、週に5日パン屋で働いて1日学校に行かなければなりませんでした。学校で"理論"、職場で"実践 "を学ぶという、ドイツの有名な"デュアルシステム"(職人教育制度)です。地区や職種に よっては"ブ ロック制度"といわれる集中授業(2、3ヶ月に一度2週間毎日授業)を行っているところもあります。学校の教科は、製パン理論?数 学?政治? 製パン実習で筆記テストもしばしばありました。クラスメイトは15人程(辞めていく人がかなりいたので定かではありませんが)、10代後半の子達でした。 年に1、2回各一週間程度の実技研修にも参加しなければなりませんでした。修行中は Vergütung といわれる謝礼をもらいます。(1年毎に上がって いきますが、決して多くはありません。)研修?試験などの費用は、全て修行先の企業によって支払われました。Mühle in Triangel

    秋頃から繰り返してきた CDG担当者との話に進展がないので、私は職業学校の先生の協力も得ながら一人でパン屋探しを始めました。その時は、村生活の不便さで仕方なく買った中古 車がとても役に立ちました。何軒ものパン屋を訪ね歩いてやっと、ヒルデスハイムの郊外に希望のパン屋を見つけました。パン屋を初めて見たときの感動を、今 も忘れることが出来ません。パン屋は、私が昔描いた夢のパン屋にそっくりで、初めて見た気がしませんでした。マイスターに未だ会ってもいないうちに「私は ここで修行する」と確信しました。その日私は、日記にパン屋を見つけた感動をただ一言「完ぺき」と書き記しました。

    幸運にも研修が始まって半年後、中間試験を境にパン屋を変われることになりました。パン屋に住み込むことが出来たのもラッキーでした。 そこでは石臼 で粉を挽いて、昔のままの蒔きのオーブン(Altdeutscher Holzbackofen)でパンが焼かれていました。工房を見せてもらいながら、 私は興奮を押さえることが出来ないほどでした。デメターというところに属するビオのパン屋でした。修行は楽しく、何もかも勉強になって興味は尽きませんで した。同僚達もみんな親切で、深夜2時から働くことなど何の苦にもなりませんでした。

    Yuko mit Meister麦 の粒から始まって、パンになるまでの全ての工程を目の当たりにし、"技"を盗めたことは幸 せの一言に尽きます。本当にド イツにきた甲斐があったと思いました。手で本当にパンを作りせる"職人"を、同僚に持てた私は幸せ者でした。最 も伝統的な サワー種 Dreistufensauerteigführung(三段階法)を、しかも機械に頼らない方式を学べたことも、私にとって大きな 収穫でした。(今はほとんどのパン屋で、サワー種は専用のコンピューター制御の機械で作られる)当時、新商品の開発?レシピの改良?販売コーナー?パンフ レットの改良など夢中でやったことは、 何年後かにすることになるテクニカー学校の勉強ともどこかつながっていました。

    私はみんなの協力と勉強の甲斐あって、2002年1月30日にヒルデスハイム一番の成績でGeselle試験に合格することが出来ました。あの小さな村に住んだこと、そしてあの小 さなすてきな パン屋で修行したことを私は一生忘れないでしょう。今も思い出すだけで胸が苦しくなってしまうほど、本当に私はあのパン屋が大好きでした。窓から見える木 々、木の作業台、大きな石臼、どっしりとしたパン焼き窯、かめばかむほどにおいしいパン、それに本物のパン職人達...。いつまでも 残っていて ほしいと心から願っています。

    同じヒルデスハイムで研修した仲間数人は、ゲゼレ試験後も何年かドイツに残って修行を続けていましたが、いつのまにかみんな帰国してし まった様です。時々集まって日本食を作ったり、言葉や仕事上の問題などを思い切りしゃべってストレス発散したのは懐かしい思い出です。

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